鳥取県建築士会東部支部研修会 平成22年10月21日〜10月23日
建築士会東部支部 澤 健一
恒例の全国大会を挟んだ東部支部の研修会が終わった。佐賀は何もない県ではない、とても多くの歴史と文化に触れられる地域であった。改めて佐賀をかみしめる旅でした。
総勢15名、朝早く鳥取を発ち有田に着いたのが12時40分、我々は早速研修の地に向かった。例によってしょっぱなにいきなり予定外の場所に行く。
■柿右衛門参考館
人間国宝である十四代酒井田柿右衛門の窯元。広い敷地内には、ショールームや古陶磁参考館といった展示室母屋、風変わりな藁葺きの新宅が並び歴史と伝統を感じさせる場所となっている。柿ノ木と桜が印象的だ。
■深川製磁のチャイナ・オン・ザ・パーク。
宮内庁ご用達の有田焼工場である。忠次館は柿沼守利氏の設計、氏は1943年東京生まれ。1967年より建築
家白井晟一に師事。親和銀行本店第3期工事、虚白庵(白井自邸)、松濤美術館、雲伴居(遺作)などを担当。83
年師の逝去により翌年独立。建築は白井さんの匂いがいっぱいだ。壁の見切りや窓、柱の掘り込みや手摺、そして陰。他の作品に銀座清月堂ビル、光圓寺(福岡)、洋々閣改修、などを手掛ける。次の文章はHP洋々閣雑感より抜粋した。
「われわれの先祖はいつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。もし、日本座敷をひとつの陰翳に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり床の間は最も濃い部分である。私は数奇を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光と蔭との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。落懸のうしろや、花活の周囲や、違い棚の下などを填めている闇を眺めて、それが何でもない蔭であることを知りながらもそこの空気だけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。」・・・感慨深い言葉なのでコピーをさせていただいた。
■有田の町並み(またまた急遽予定外見学する。)
有田は、町並みとして、国の重要文化財(正式には重要伝統的建造物群保存地区)に指定されている。長崎県内では長崎市東山手(東山手町・大浦町)また南山手(南山手松ヶ枝町・小曽根町)など。有田の町並みが重要文化財に指定されたのは平成3年、『有田内山伝統的建造物群保存対策調査報告書』(佐賀県有田町教育委員会・昭和60年)によると、調査や町並みを考える活動が始まったのは、その10年以上前の昭和54年。清水氏によると、最初は、町並み調査ではなく、古窯跡の調査から始まったとのこと。
その後、歴史的環境の見直しや、地元の建築家やデザイナーなどの有志による勉強会、住民の意識向上などの地道な活動が続けられ、ようやく町並みの指定にいたった。現在も、「やき物のまち・ありた」を、「生きている町そのものを文化として保存する」という視点で、町並みの整備が進められている。年代の異なる外観がとても楽しい町並みだ。
(webページ 有田アルセッド建築研究所の清水耕一郎氏談。)
■塩田津重要伝統的建造物保存地区
塩田津は、有明海の干満の差を利した川港と長崎街道が育んだ商家町で、蓮池藩の西目統治の拠点として栄えた。町並みは、藩政期に遡る地割を背景に、重要文化財西岡家住宅と登録文化財杉光陶器店を核とし、江戸後期に建設された「居蔵家」と呼ばれる町家が重厚な景観を形成しており、これに塩田石工による石垣や仁王像、恵比寿像などが加わって良好な歴史的風致を構成している。(伝建協HPより)
平成13年に地元住民による「町並み研究会」が発足し、塩田町商工会主催で地元小学生を中心に町の歴史と文化財を探訪する「まちなみウォッチング」等のワークショップを開催し、その普及啓発を進め、景観保存への気運が高まった。現在は、町並み研究会から改
称した「塩田町町並み保存会」と「塩田職人組合」、「塩田町商工会」、市が連携し景観保存・まちづくりに取り組んでいる。その中心となって活動をされている水山さんと筒井さんに案内をいただいた。 (佐賀県HPより)
■隔林亭
佐賀藩主鍋島直正公の別邸である「神野のお茶屋」の茶室を復元したもの。1846年当時は、佐賀藩の迎賓館としての役割があった。1960年に解体される。その後昭和61年に「隔林亭文書」が発見され復元の機運が高まる。平成元年に復元される。ベランダの様に張り出た空間が新鮮である。清流を引いた池、松や梅などの緑が鮮やかな池泉回遊式の庭園が趣深く、市民の憩いの場として親しまれている。アクセスは現代的で付け足ししたものか?間合いの路地が印象的だ。(一部佐賀観光協HP・パンフレットより)
佐賀三十六万石の十代藩主鍋島直正公は藩政改革を行い全国有数の雄藩としての実績を築き学問、救農、産業開発、交通文化、開拓、それぞれの分野で偉大な功績を残した。教育を刷新、人材の育成に力を注ぎ、弘道館での教育に力を入れた。「花を看るに好し民と偕に楽しむ」と民を愛す。
■大隈記念館
世界的政治家として、また早稲田大学の創設者として有名な大隈重信侯の誕生125年を記念して、本記念館は和42年10月に開館。大隈侯にまつわる歴史資料を数多く展示している。早稲田大学名誉教授今井兼次博士の手によるデザインで、大隈侯のどっしりして動かざる姿をイメージして建てられている。 大隈記念館はどういうわけか日本から遠く離れたヨーロッパの表現主義建築をモデルとしたものだ。実際に建物を眺め、中の空間に委ねると独特な感覚を覚える。特に背面や側面のデザインは新しい発見である。
今井は合理的なモダニズム建築とは一線を画する作風で知られているが、記念館においてもその独自性がよく表れています。モダニズムとは異なる今井の作風は、戦前にヨーロッパを周遊した際にアントニオ・ガウディなどの建築に触れたことが背景にある。ガウディを日本にいち早く紹介したのも彼で、自身が設計した日本二十六聖人記念聖堂(長崎市、1962)にはサグラダ ファミリア(スペイン)の影響が見て取れる。そして今井がヨーロッパで感銘を受けたもう一つの建築が第二ゲーテアヌム(スイス、1928)である。これはアントロポゾフィー(人智学)の思想家ルドルフ・シュタイナーが設計した建物で、20世紀前半においてコンクリート建築で芸術の域に達した名作と評価されている。両者を比較すると、大隈記念館の造形がこの第二ゲーテアヌムの影響を強く受けていることは明らかである。とはいえ、第二ゲーテアヌムに比べると小規模で基本的には矩形の建物である記念館にクセの強い表現主義を取り入れるのは簡単ではないはず。今井がシュタイナーのデザインをより深いレベルで理解していたからこそ実現した建物といえる。